いかに五濁悪世とは言いながらも、耳目を衝動させる怪異な事件が頻発しています。
中でも、長崎県佐世保市の女子児童による同級生殺害は、凄惨極まりない。報道によれば、かっとなった一時の感情による犯行ではなく、明確な殺意を持って友人を呼びつけ、後ろから目隠しをして、カッターナイフで首を切り裂き、大量失血死するまで、じっと眺めて待っていたというのである。
加害女児は、自分のプロフィールに、「しゅみはパソコン」「性格は裏と表があるらしい」と書いていた。好きな本は、中学生同士が殺し合う内容の『バトル・ロワイアル』。夢中だったバスケット部を家庭の事情で退部してから、周囲に攻撃的になったらしい。
パソコンのホームページにのめり込み、恨み、呪いのありったけをネットの世界にぶちまけているうちに、ささいなことから殺意を抱くまでになったようだ。
だが、表面上は特に荒れた様子もなく、事実、父親は弁護士にこう語ったという。
「娘は元気で明るい子。事件の直前まで普通で、前兆には全く気づかなかった」
実の娘の殺意を、日々会話している両親が全く気づかなかったのだ。いかにもネット社会の現実を象徴し、空恐ろしくなる。
社会や学校教育にも、むろん問題はあろうが、改めて思うのは、もし彼女の家庭に仏法があったら、結果は大きく違っていたのではないか、ということである。
例えば、善因善果、悪因悪果、自因自果。まかぬタネは生えぬ。刈り取らねばならない一切のものは、自分のまいたものばかり。特に心のタネまきが大切だよ、と大宇宙の真理・因果の道理を、幼い心に聞かされていたら、どうであったろう。この因果の道理は、親鸞会では重ねて教えられることである。
盲亀浮木の譬えや、「人身受け難し、今已に受く」の仏語から、生まれ難い人間に生を受けたのは、大切な目的があるからだ、「人間に生まれてよかった」、地球より重い命なんだということが、小さな魂に刻まれていたら、かかる凶行はできただろうか。
弥陀の大悲に救い摂られ、恨みも呪いも感謝法悦に転じた母・韋提希の姿に、さしものアジャセが仏法に帰依した『王舎城の悲劇』の話を聞いていれば、女の子の人生も、別な展開があったのではないか。
親鸞会では今、全国に、家庭法話が浸透しつつある。また、久しく法話の絶えていた地域の公民館などで、親鸞会の講師を招待しての仏法談議が再開しつつあるのも有り難い。
小さくてもいい。心から心へ、一歩一歩、聖人のみ教えを堅実にお伝えすることが、末法の世を、真に明るくするに違いない。
親鸞会では、地道に教えを伝える努力を重ねていく。